《しぴえる(@sh1p1_ele)のお風呂が沸きました》
世はまさに大SNS時代。
今でこそTwitterというツールにハマって、すっかりツイ廃になってしまった僕だが、スマホなど普及していなかった小中学生の頃を思い出すと、僕はまったく別のコンテンツに夢中になっていた。
国語辞典である。
ADHDゆえなのか知らないが、当時の僕の脳内には常に何某かの思考が渦巻いていて、情報のインプットに飢えていた。
何なら今もそうである。
そんなだから図書館に通い詰め、古書店で本をかき集めるような子供時代を過ごしていたのだが、中でも国語辞典はどんな本よりもコスパ(価格に対する情報量)が良い。
旧版の国語辞典にいたっては運がよければ数百円で購入できることもあって、一時期の僕は国語辞典コレクターと化していた。
今日は、そんな僕が編み出した、国語辞典の読みかたと楽しみかたを紹介しようと思う。
◆最初のページからひたすら読む
王道は何と言っても、最初のページからひたすら読むことだろう。
当時、僕は広辞苑第五版の読破に挑戦していた。
五十音の最初の「あ」だけでも、音節としての「あ」、準ずるを意味する「亜」、発声できないさまを表す「唖」…。
どれも意味自体は理解しているつもりでも、あらためて解説を読むと「そういえば」と思わぬ発見があり、それが非常に心地よい。
自分の語彙が、隙間なく埋められ、整理されていく感覚がたまらないのだ。
しかしながら、この読みかたはあまり集中力がもたない。
というのも、未知の語や意味に出会うたびに、それを自分の脳内の「日本語コレクション」に収蔵しようとして、思考力や記憶力をフル回転させてしまうからだ。
そんなわけで、最初のページからひたすら広辞苑を読むやり方は、見開きを読み終えたぐらいのところで終了することが多かった。
当然、読破する夢は叶わなかったのだが、無節操に語彙を増やすことができるのは、やはりこの読みかたの魅力である。
◆ゲームで遊ぶ
さて、国語辞典があると、ちょっとしたゲームで遊ぶことができる。
以前の風呂で少々触れたのだが、僕の母親はテレビゲームの類を一切禁止していたから、子供の頃の僕は娯楽に飢えていた。
そんな僕が編み出したゲームがこちら。
国語辞典の迷路
①目を瞑って、国語辞典の適当なページの適当な場所を指差す。
②指の先にある語が「スタート」となる。
③これらの操作をもう一度やって「ゴール」を決める。
④「スタート」の語の解説に出てくる好きな言葉を調べ、その解説に出てくる言葉をまた調べる。
⑤これを繰り返して「ゴール」まで辿り着けば終了。
文章にするとわかりづらいが、要するに、電子辞書でいうところの「ジャンプ」機能を繰り返して、どれだけ早く目的の語に到達するかという遊びである。
これが、調子の良い時は数項目の経由で終了するのだが、そうでもない時だと何時間かかっても終わらない。
運と、ちょっとした勘とひらめき、さらにはその国語辞典の「性格」をどれだけ理解しているかによって難しさが変わる、絶妙な遊びだと思う。
ちなみに、ゲームというほどのものではないが「ある語が国語辞典ではどう解説されているか」を予想し、答え合わせをする遊びというのも、たまにやっていた。
この遊び、広辞苑や大辞泉はともかく、新明解だとたまに突拍子もない解説が飛び出すので大爆笑である。
新明解について語り出すとキリがないので、ここでは控えておこう。
確か、僕が持っていたのは新明解の第四版だったか。
もう絶版になっているはずだが、あれは非常に闇が深く底なしに面白い辞典なので、興味のある人はぜひ手にとってほしい。
そして、何がそんなに「大爆笑」なのか、ぜひ自ら確かめてみてほしい。
◆複数の辞典を横断する
辞典を複数冊持っているなら、横断して語を調べるのも楽しい。
例えば、我々が普遍的に持っている感情であろう「愛」の解説を見てみる。
広辞苑「愛」
①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。
②(男女間の)相手を慕う情。恋。
③かわいがること。大切にすること。
④このむこと。めでること。
⑤愛敬(アイキョウ)。愛想(アイソ)。
⑥〔仏〕渇愛。対象に対する強い欲望。十二因縁では第8支に位置づけられ、迷いの根源として否定的にみられる。
⑦キリスト教で、神が人間をあまねく限りなくいつくしみ、人間の救いのために自らを与えること。また、この神の愛を恵まれた人間が互いにいつくしみ合うこと。
大辞泉「愛」
①かわいがりいつくしむ。思いこがれる。いとおしいと思う気持ち。
②対象を気に入って楽しむ。
③二つとない対象を大切にする。
④大事なものを手放したくないと思う。おしむ。
広辞苑は「愛」の関係性や、それが現れる場面に着目して解説しているようだが、大辞泉の場合は人の内面、感情の機微に重きを置いている。
ここで、さらに興味深い情報を紹介しよう。
以下は、広辞苑の編集理念の抜粋である。
日本語の語彙と表現は、古代から現代に至るまで、日本語を使う無数の人々によって大きく豊かに育てられてきました。この日本語という沃野を耕してきたのは人々の自由な心です。言葉は、自由な発想から芽吹き、人々の手で自由に選びとられ、愛され、そして縦横に駆使されることによって、広がり、深められ、定着していきます。激変する世界にあって意味を見失った言葉の氾濫する今日、ますます求められるたしかな言葉。人は言葉によって自分自身を知り、他者を知り、生きる勇気と誇りを手にすることが出来る。言葉は、人を自由にするのです。
続いて、大辞泉の編集理念を見てみると、このようになっている。
辞書には、時が経過しても変化しない事柄と、日々古くなる事柄とが混在しています。中数年前まで、辞書は書籍の体裁で世の中に提供する方法しかありませんでした。辞書は刊行と同時に古くなり始めても仕方がないものだったのです。21世紀の今日、インターネットやテレビ・新聞・雑誌などを通して、人類の歴史上これまでにない速度で新しい言葉が生まれ、広がり、使われるようになっています。また、人々を取り巻く社会情勢が急速に変化し、政治・経済・法律、制度・体制・組織などが常に変わり続けています。
広辞苑こそが人の心の揺れ動きに敏感で、大辞泉は実用的な解釈に徹しているかのような印象を受けるが、実際はそうでもないのか。
あるいは、広辞苑のような形式的な解説によってこそ、初めて「言葉は、人を自由にする」ことができるのだ、と捉えられるかもしれない。
個人的に、大辞泉の「愛」の解説はいささか抽象的で、辞書として不完全だと思う一方で、自分の中にあるあたたかい「愛」を見つめ直すきっかけになったので、嫌いではない。
また、今回は試しに「愛」を例に挙げたが、他の語だと違った感想にもなるだろう。
語を複数の辞書で横断して調べ、編集理念と見比べると、考察めいた何かを無限に生み出せるのである。
◆表記揺れを探す
辞書によって、同じ語でも表記揺れが存在する。
これは滅多にお目にかかれないのだが、それゆえに、見つけた時にはお宝にでも出会ったかのような気分になれるのだ。
広辞苑「コロセウム」
大辞泉「コロセウム」
大辞林「コロセウム」
これらの辞典では「コロッセオ」「コロシアム」などの表記揺れは「コロセウム」の項を参照するよう誘導される。
しかし、ここで日本国語大辞典を見てみるとどうか。
例によって、この辞典も「コロセウム」を「古代ローマの円形闘技場」と解説しているのだが、なぜかコロシアムの項目も別に作られているのだ。
そして、ここでの「コロシアム」は、古代ローマとは関係なく、単に「大競技場・大体育館・大劇場」のことらしい。
ここに来てなぜ「コロセウム」と「コロシアム」を分けるのかと疑問が浮かぶが、Oxford Languagesが提供するGoogleの日本語辞典も、まさに同じような区別をしている。
Oxford Languages「コロシアム」
①ローマ帝政時代に作られた円形闘技場。コロセウム。
→Colosseum
②大競技場。
→coliseum
つまり、古代ローマの円形闘技場である「コロセウム」が転じて、単に大競技場を意味する英語の「コロシアム」として一般に用いられるようになったということだろう。
Oxford Languagesの解説をよく見ると、前者の「Colosseum」は大文字から始まっているのに対し、後者の「coliseum」は小文字である。
英語圏において「コロシアム」は「コロセウム」とは区別される一般名詞であり、日本国語大辞典はそれを取り入れたのかもしれない。
話が少々とっ散らかってしまったが、要するに表記揺れはたまにしか見つけられないという意味でお宝のような存在だし、深堀りすると思わぬ発見があるという意味でも、やはりお宝なのである。
◆電子辞書も良いけれど紙の辞書も捨て難い
さて、以上が僕の国語辞典の読みかた、そして楽しみかたである。
使いやすい電子辞書も良いのだが、紙の辞書には紙の辞書なりの深みがあると僕は思っている。
電子辞書やWikipediaで何でも調べられる現代だが、一家に一冊くらい、紙の辞書があっても良いのではないだろうか。
それにしても、こんな記事を書いていたら国語辞典を読みたくなってしまった。
朝になったら、僕も久々に、何かいい中古品がないか探しに行くしよう。