しぴ風呂

いい湯だな

『分析哲学講義』青山 拓央(ちくま新書)

【書籍情報】

  • 出版社 ‏ : 筑摩書房 (2012/2/1)
  • 発売日 ‏ : 2012/2/1
  • 言語 ‏ : 日本語
  • 新書 ‏ : 270ページ
  • ISBN-10 ‏ : 4480066462
  • ISBN-13 ‏ : 978-4480066466

【概要】

分析哲学を、日常的な具体例や自然科学への問いと関連させながら解説した本。分析哲学とは、言語のはたらきの分析を通じて世界の仕組みを解き明かす手法のこと。その独自性は、言語を基礎的で自律的なものと見做し、言語の機構の解明によって他の機構を説明していく点にある。従来の考え方は世界を言語で写し取るというものであったが、分析哲学の発想は、まず言語があってそこから世界が開かれるという直感によって支えられている。言葉の意味を問い、その同一性を論じることにより、言語と存在を結びつけていく試みが分析哲学の要である。

【要約】

  1. 分析哲学の起こりは、言語によって世界を解明しようとする取り組みに端を発する。起源は19世紀の終わりから20世紀の初めに遡り、フレーゲラッセルらが代表的な人物として挙げられる。彼らの論理学的研究を機に、言語や論理の解明を以て哲学的問題の解消を図るため「人工言語学派」と「日常言語学派」という流れが生まれた。そこで得られた哲学的知見は、哲学における古典的な心身問題への新たなアプローチにまで派生した。
  2. 文章を読んだときに各人が抱くイメージはそれぞれ異なるが、言語によるコミュニケーションは健全に機能する。それは、言葉の意味に同一性があるからだ。一方フレーゲは「文の意味は常に客観的でなければならない」と考え、指示対象説を提唱した。指示対象説の元では「リンゴ」という言葉の意味はまさに「リンゴ」そのものだと考える。しかし、この場合「赤い」という抽象的概念を扱いきれないのが問題となる。よって「特定の具体的事物を指し示す用語については、指示対象説が成立する」という限定的な学説のもとで議論を行うことになる。
  3. ラッセルは、定冠詞を付けられるような句や固有名を「確定記述」として扱う考え方を導入し、自然言語を述語論理に落とし込むことで、文章を関数のように扱うことを可能にした。
  4. のちのウィトゲンシュタインにより、従来の分析哲学は「命題が世界を開く」という発想に置き換えられることとなる。著書『論考』では、論理的に常に真となる命題をトートロジーと呼び、論理実証主義者はこれを展開して、論理学的真理の必然性は人間の取り決めに基づくものであると考えた。他方、経験に基づく真理は要素命題の検証によって得られる。よって、意味の検証理論によれば、命題の意味はその検証条件となる。最終的に論理実証主義は覆されることとなったが、クワインはその欠陥を明確化することで新たな哲学的見解を得ようとした。こんにちの全面的全体論では、必然的真理は存在せず、確からしさの差があるのみである。
  5. 哲学探究』でウィトゲンシュタインがとったとされる意味の使用説とは、言葉の意味が理解されているかどうかを、その言葉が使われるシチュエーションに見て取るものである。意味の使用説においては、同一性が保証されるべき媒介物としての意味は存在しない。使用説は実のところ「何の答えにもなっていない」のであり、言語ゲームにおける無根拠な実践の一致が規則や意味の同一性をもたらしているだけである。ゆえに、もはや分析哲学は言語のみの分析を対象とできなくなり、自然科学化することとなった。
  6. 科学的自然も原初的自然も本来は存在せず、ただ一つの自然であることを筆者は論じる。筆者によれば我々は、目に見える像としてのリンゴ、心の中で思い浮かべるリンゴ、物理的に存在するリンゴ、読み上げる言葉としてのリンゴなど、多種多様なものを「リンゴ」という同じ言語で、いわば両替していると考えられる。この両替の規則は、なぜか人々の間で一致しているから成り立つとしかいえない。結局、原初的自然に訴える議論は、非原初的な記述のもとでしか、理解可能な説得力を持たないのである。哲学の自然化と科学の自然化の両方をなくして、ただひとつの自然が探求される日は訪れないだろうと筆者は締め括る。
  7. 1960年以降、分析哲学の流れは複数に枝分かれした。クリリプキの『名指しと必然性』は、論理実証主義において疑いの対象であった様相概念を全面的に用いている。述語論理を拡張した様相論理学は、可能世界という概念を用いて意味論が与えられたことでより見通しが良くなった。クリプキは固有名についてのラッセルの議論を批判し、固有名を「すべての可能世界で同一のものを指す名前」と考えて「固定指示子」とみなした。他方、記述の束は非固有指示子である。これの考えは、経験的真理を必然的真理たらしめた。必然性とは事物の存在可能性に関する形而上学的な概念であり、言語的取り決めとは独立であるといえるのである。
  8. いかなる心の状態も脳の物理的状態の一種だと考える心脳同一説によれば、心と脳はタイプ的に同一であるが、心には時空的位置が存在しない。よって、ライルの『心の概念』に代表される行動主義は、心の因果性を拒否した。対して、パトナムの機能主義による見解では、心は因果的機能だとされる。この場合、タイプ的に異なる様々な脳状態が、同一の心の機能を表現することも可能である。ここで、主観的な感覚や経験を指すクオリアという概念を導入する。心が因果的機能であれば、クオリアは心の働きに一切関わらないことになる。検証のため、クオリアを持たない、物理的コピーとしての人間を現象ゾンビと呼び、思考実験がなされた。サールによれば、心は存在論的には還元できないが、因果的には脳という物質に還元できるため、心の働きは科学的に解明可能である。クオリアが存在することは、心が一人称的であることに他ならない。「一人称的存在論とは何であるか」という問いが、心身問題の核心である。
  9. 時間の形而上学において「今」が移行していくさまを正確に記述することはできず、マクタガートは時間の非実在性を主張している。ダメットは論文で「あらゆる出来事は、時間の中に存在する以上、状況依存的な表現なしに完全な描写をすることはできない」との見解を示した。もうひとつの見解としては「実在するものには、それについての完全な、観察者から独立した描写がある」が挙げられる。この2つの見解は背反しており、ゆえに時間の非実在性がいえるとダメットは考えた。その上で、ダメットは第一の見解を維持しつつ、第二の見解を拒否しようと試み、のちに反実在論を再定式化した。現代の哲学においても、未だ時制的思考と無時制的思考が対立している。無時制的な思考の方が自然科学とは整合が取れるが、日常的直感に沿うのは時制的思考である。このような矛盾を認知することは、科学への正確な理解を促し、化学や物理学の議論にも転用できるものである。

【感想】

クオリア」「トートロジー」「ヘンペルのカラス」など、哲学や論理の分野において自分が持っていた断片的な知識は数多くある。
この本は「なぜそのようなアイデアが生まれるに至ったのか」という根本的な理由について理解する助けとなった。
そもそも哲学という問いの存在意義を知らず「ただ難しいことを考える学問」程度にしか捉えていなかった自分にとって、まさに入門書となった一冊だと思う。
哲学とは思想のことではなく、森羅万象に対して極めて論理的な分析をする取り組みであることを理解できたのが最大の収穫だった。

自分が哲学の中で最初に興味を持ったのが分析哲学だったため、この本を読むに至ったが、形而上学存在論など興味深い分野への案内もあり、今後は自分の専門とはしないまでも、広く哲学の世界を探究していきたい。

なお、新書の形をとっているが、初学者が一読しただけでは理解に苦しむであろう本であることは否定できない。
自分自身も初学者なので、ノートを取りながら、大学が公開している講義PDFなどの資料と見比べつつ読み進める必要があった。
しかし、この本に書かれている分析哲学の解説を拾いきることができなかったとしても、哲学が単に難解な思想を指すものではなく、先述したような「森羅万象に対する論理的・科学的な問い」であることを感じ取れただけで、手に取った意義は十分にあっただろうと思う。