《しぴえる(@sh1_p1ele)のお風呂が沸きました》
久々のブログ更新。
まったくもって、激動の一年だったと我ながら思う。
教育虐待であったり性的虐待であったり、これまで押さえつけていたさまざまな過去が、とある出来事をきっかけに、まるでパンドラの箱を開いたかのように一気にあふれ出した。
その出来事についてはおいおい書いていければと思っているが、ともかくここ最近の私は酷いもので、悪夢を見てトイレに駆け込んだり、心の痛みを忘れるために自らの爪を剥ぐという拷問を行ったり、フラッシュバックから昏迷状態に陥って数時間溶かしたりする始末である。
さて、自分の過去を振り返る中で、避けては通れないのが「性」の話だと思う。
このあたりを下手に深く掘り下げると、またしても解離を起こしてパソコンの前で倒れ込む羽目になりそうなので、今回はマイルドに風俗の話でもしよう。
◆「おぢ」とは何者か
どっぷりとその世界に浸かっていたというほどではないが、世間一般の同年代の女性よりは、確実に自分の性を売り物にする生き方をしてきた。
諸々の事情から風呂屋は1週間でギブアップしたが、配達屋とマッサージ屋はそこそこ続いた記憶がある。
すると否応なしに「おぢ」の存在に直面することになる。
ここでいう「おぢ」とは、単に風俗を利用する中年男性のことではない。
夜職の女の子がこぞって嘲笑する、気持ち悪い中年男性を指して、私はここで「おぢ」という呼称を用いている。
そう、「おぢ」は「キモイ」のである。
しかし、見た目が好ましくないとは限らない。
プレイ内容が不快だ、などという話でもない。
それなのに、「おぢ」は必ず「キモイ」。
その気持ち悪さの正体が何なのか、その手の界隈の女の子が明確に言語化することは少ないと思う。
私も、「キモイものはキモイのだ」と、昔は深く考えなかった。
そして、そこから先を考察するのが、この記事のテーマである。
◆歳だけ重ねたモンスター
「おぢ」の年齢は40代以上がほとんどである。
特段怖い客というわけではなく、むしろ物静かである人すら少なくない。
では何が問題かというと、その自信満々な態度と、上から目線の性欲なのだ。
「気持ちよくしてあげる」「こういうの好きでしょ」「満足した?」
このような台詞がぽんぽんと出てくる。
彼らは、自分が女の子にサービスする側だと思っているらしい。
そして「気の利いたテクニックでサービスができる自分は、特別な客に違いない」という自負も少なからず感じられる。
性を売った経験のない人であっても、彼らが非常にウザイことは容易に想像がつくだろう。
とはいえ、それはSNSで嘲笑され、こき下ろされるようなことなのか。
そもそも女の子は、キモさへの接待の対価として報酬を貰っているのだ。
愚痴るくらいは許容されうるかもしれないが、何をそんなに全否定することがあるのか。
それは、歳だけ重ねたモンスター然とした「おぢ」の姿が、只々怖いからである。
◆不安から目を背けるための嘲笑
人は多かれ少なかれ、歳を重ねれば、相応の経験をして人間的に成熟するものである。
「自分は思ったより大した存在ではない」ということに気づいたり、「自分はときに他人の助けを必要とすることがある」と認めたり。
しかし「おぢ」にはそれがなく、サービスを享受する立場でありながら、自分が女の子に対する指導者だと思っているふしがある。
そのような大人の姿に、女の子は不気味さを覚えると同時に、不安になるのではないか。
少なくとも私はそうだった。
いずれ自分にも訪れる加齢という現象が、思っているほど深いものではなく、歳だけ重ねたモンスターになり果てる結果に終わるのではないかという不安。
しかし、そんなことがあっては困る。
だから必死に嘲笑し、こき下ろし、叩くのである。
「おぢ」を否定する行為の裏側には、私はそうはならない、なりたくないという叫びが存在するのではないか。
今でも、夜職の女の子の投稿を見るたび、そんな思いが心をよぎる。
◆しかし、嘲笑するよりは
実際のところ、どれだけ「おぢ」を嘲っても、自分が「そうなる」未来を避けられるわけではない。
ただ、今この瞬間、醜い歳の取り方から目を背ける以上の効果はないだろう。
だから、彼らを嘲笑するよりは、自らが見識を深める方に考えを向けた方がよい。
自戒も込めて、そう思う。
「おぢ」を気持ち悪がっている暇があれば、せめて彼らに会わない間くらいは、心の滋養となるさまざまな創作物や学問、あるいは体験そのものに身を投じよう。
恐らくそれが、彼女たちを、そして私を、「おぢ」から救う唯一の方法なのではないだろうか。