しぴ風呂

いい湯だな

神格化される「東大生像」とUT生の実際

《しぴえる(@sh1p1_ele)のお風呂が沸きました》

僕はTwitterをもともと音楽垢として始めたので、当初は新人ボカロPや同人作曲家と繋がっていた、はずである。

しかし名大のパートナーができたために名大界隈と繋がり、しばらくするとFFが東大院に進学したために東大界隈と繋がり、それで気が付いたらFFの高校時代の後輩と繋がり、そこから京大に進学した人が出たので京大界隈と繋がり、結果このように謎のTLが構築されてしまった。

おかげさまで絡みのあるFFから脅されながら、右も左もわからぬまま微積と線形をやる羽目になったし、この前は唐突に測度論とやらを突きつけられて逃亡した。

余談が長くなったが、TwitterでUT生を見ていて感じる「東大生像」について、勝手な考えを語っていこうと思う。

 

◆「東大卒〇〇」の謎

 

僕はテレビを観なくなって久しいが、話に聞く限り、メディアが東大をやんややんやと褒めそやす傾向は相変わらずのようだ。

「東大卒芸人」「東大クイズ王」「東大発ベンチャー」「東大生の母の教育」「君は東大生に勝てるのか」

正直、うんざりである。

東大の何をそんなにネタにしたいのか。

といっても「東大生ばっかり持ち上げやがってチクショウ」「東大なんて大したことないわ」の意味ではない。

むしろ逆で、Twitterで僕と関わってくれるUT生は身近で親しみやすい人たちなのに、なぜああまでしてメディアは世間から線引きしようとするのか、という気持ちなのだ。

確かに東大は素晴らしい場所なのだろうと思う。

僕も、自分の学力と経済力が許すなら、今からだって東大に行って学びたい。

ただ、それはあくまでも「東大が教育・研究機関として理想的な環境だから」という話に過ぎない。

芸人が、クイズ王が、ベンチャーが、その母が優秀なのは、東大ゆえではないだろう。

メディアには、肩書き抜きにしたその人自身を見せてほしいと僕は思っているのだが、なぜいちいち東大と絡めて語りたがるのか。

僕は、UT生と他愛ないやり取りをするたびに、メディアの映し出す「模範的東大生像」との大きな乖離を感じ、気味が悪くなるのだ。

 

◆神格化あるいは社会的スティグマ

 

世間は、東大生に対して、畏怖の念のようなものでも持っているのだろうか。

ちょっと話せば分かるが、UT生はみんな、勉強が得意なだけの普通の大学生だと感じる(これは決して否定的な意味合いではない)。

それなのに、メディアはまるで接頭語のような感覚で「東大」をつけ、普通から切り離していく。

ただ勉強が得意で東大に通っているというだけの人を、そうやって神格化するのは、ある意味「普通である私たち」のコミュニティからの排除ではないか。

表面上は持ち上げているから許されているのかもしれないが、僕には、世間が東大生に対し、社会的スティグマと同質のものを押し付けているように思えてならないのだ。

もちろん、考え過ぎだというなら、それで構わない。

大学という場所に詳しくない人間の、戯言だと思ってほしい。

 

◆いくらお勉強ができたって?

 

ここでもうひとつ、僕が気持ち悪く感じている話をする。

「いくらお勉強ができたって」という枕詞だ。

もちろん、全く理解しないではない。

任意のXの能力を重視する人にとって「お勉強ができるけれどXができない人間」は取るに足らない存在だろうから。

ただ、あたかも当事者が他の能力を犠牲にしてまで勉強を選び、学歴を獲得したかのような言いぶりには、モヤモヤするものがある。

だいたい、人には得手不得手があるのだ。

勉強ができたって、運動神経、美的感覚、コミュニケーション能力、ひらめき、コモンセンス、人間的魅力、その他諸々に欠ける人は、当然いるだろう。

そして、これらのスキルは往々にして、成績と引き換えに向上させられるようなものではない。

少なくとも等価交換はできないだろう。

そんなこと当たり前なのに「いくらお勉強ができたって」というフレーズはやたらと好まれる印象がある。

UT生に押しつけられる社会的スティグマ、あるいはそれと表裏一体の神格化は「いくらお勉強ができたって」の呪いの延長にあるのかもしれないと、ふと思った。

 

◆エリート支配者層の卵への牽制

 

僕が岐阜出身だから、土地柄のせいで余計に感じるのかもしれないが、どうやら世間の少なくない人数(下手したら過半数)が、勉強が得意な人を「鼻持ちならないエリート予備軍」と思っているようだ。

成績優秀者→有名大学卒業→大手企業に就職(もしくは官僚として入庁)→出世→支配者層

そんな共通認識があるのを、何となく肌で感じていた。

だから、自らを脅かしうる強者に対して、弱者としての立場から、牽制しようとしている可能性を考えてしまう。

それが「東大生」というレッテル貼りに繋がっているのかもしれないと。

このようにして考えると、ただの大学生やその関係者に対して、肩書きをデカデカと掲げる行為の真相が見えた気がした。

結局は、能力が高そうな異端者をリスク要因と見做し、コミュニティから排除したいだけではないかと。

早い話が、ルサンチマンである。

もっとも、今日の一連の考察は、もしかしたら全くの的外れなものかもしれない。

それならそれでいいのだ。

ただ、どちらにせよ「東大生」が勝手に持ち上げられ、世間から切り離されている現実は存在すると思う。

僕は東大という場所に憧れを抱くようになったから、ときどき、高校を無事卒業して東大に入学する未来を妄想するのだが、人から「東大生」と呼ばれたら途端に嫌になってしまいそうだ。

「東大である以前に自分を見てくれ」という気持ちになりそうなものだが、実際のところ、UT生はどうなのだろう。

部外者としてTwitterを眺めながら、ぼんやりと、普通のUT生と普通に仲良くできている今が続けばいいなと思っている。